針對所謂「東亞世界」的若干思考--從溝口雄三的「方法」認識談起
Date Issued
2005-12-29
Date
2005-12-29
Author(s)
戸倉恒信
Abstract
某學者認為:「東亞」一詞,約在一九二○年代以後開始出現,並逐漸取代「東洋」廣泛地受到各界使用。然而,文化理念的東亞,在一九三○年代以後成了一個帶有強烈政治意涵的地政學概念。當我們觀察到這種歷史認識時,不禁會令人感到好奇:這「東亞」一詞被解釋成地政學時,它如何僅是鎖定於如此「年代」的認識對象?就文獻記載而言,「東亞」一詞曾出現在日俄戰爭的途徑上,並且被運用拿來作為自衛的思想範疇。
換言之,將「東亞」一詞,壓縮成二、三○「年代」的過去,此種的角度是完全異於以戰爭作為再現「東亞」的認識法。因為就戰爭認識而言,「東亞」就如同「世界史(Histoire Universelle)」理念一般,當試圖將其認識為迎合強烈的政治意涵之狀況時,它便隨即成為地政學的有效根據;而不同於只是被有限於歷史學上的討論範圍。
筆者使用溝口雄三的「方法」認識,欲試圖觀察:當代「東亞史」研究者之所以無法直視其抵抗/侵略的相克性,是因為無法將地政學中的現實概念,挪用到史學方法的命題,導致將兩者恣意地篩選「世界史」的方法。
筆者於本論中進一步地質疑:這種「東亞史」研究者的恣意認識法,是否來自於所謂「戰後」意識所事先安排的同義反覆論──因為「東亞」中的侵略側面,在歷史上僅屬於二、三○年的日本,所以作為地政學的「東亞」,並未延續到「戰後」的「我們東亞」的認識中?倘若筆者的此種假設為錯誤,那麼「東亞史」研究者又運用了何種「發展論」說來主張:近代以來,中國文化在「東亞」區域作為一種高級文化,且中國歷史在發展階段上優先於週邊地區?我們必須思考,在「東亞史」的創造過程上,究竟誰取代佔據文化理念的「東亞」的資格?
為要思考這些當代學者對於的「東亞」認識,筆者在本論中有意運用「共感」、「一致」等範疇,以及基於研究群體的思考脈絡下,筆者結構性地掌握溝口雄三的方法論稿,以及2005年在東亞文明研究中心的〈權力與詮釋論壇〉(http://ccms.ntu.edu.tw/~kan/power/newsletter)所記載關於「方法」的諸論文(如溝口雄三、孫歌、許紀霖),與張崑將〈關於東亞的思考「方法」〉等這些文章,觀察他們在「方法」認識中所潛藏的同構問題。
此外,於論述之後,在附錄的部份裡,筆者藉由《臺灣東亞文明研究學刊》的退稿理由書──〈審查報告〉的內容,試圖從中去觀察學術群體內部無意中洩漏出來所謂「知識」群體的防禦機制,以此觀察結果來印証本論焦點以及論證的合理之處。
ある台湾の学者は「東亜」を:一九二○年代以後に出現し、その後徐々に「東洋」に変わって各界で広範囲に使用されるようになった概念であるとしながらも、然し、文化理念としての「東亜」は一九三○年代以後に地政学として成立したと解説している。ここで起きる歴史認識に対する疑問は、この「東亜」が地政学として認識される際、認識者は如何なる方法を用い、これを年代としての画期にすることができたのかということである。なぜなら史実に顕れてくる「東亜」は、既に知られるように日露の役に乗じ、自衛という徴表を包括しながら出現しているからである。つまり「東亜」を過去として演繹することと、「東亜」を「世界史(Histoire Universelle)」構築と同様に戦争を契機に再生産されてゆく概念だと認識するのとでは、そもそも処理する事柄が違っているということを問題にしておく必要がある。
そこで本稿では、現代の「東亜」研究者がこれに内在する「抵抗/侵略」の相克性を史学方法から直視し得なかったことの後遺症──地政学中の歴史的現実を歴史学としての「東亜」へ批判的に充当できなかった結果──として、この両者(地政学/歴史学)を恣意的に選択使用することが常態化した問題を、溝口雄三の「方法」認識の根拠を追いながら構造的に把握を行ってみた。
「東亜史」創造に於ける認識の恣意的方法は、「戦後」認識の中で事前準備された同義反復論──「東亜」という概念がもつ侵略側面は、二.三○年代の日本にのみ属すのだから、「戦後」学者の「我々」には地政学の要素は継続されない──に依拠していると推測できる。もしこの仮説が間違いならば、現代の「東亜史」研究者は、如何なる発展論を用い:中国文化は近代以降も「東亜」地域に於いて一種の高級文化、且つ中国の歴史は発展段階上周辺地域よりも優先していると認識することが出来たのだろう?つまり、「東亜史」を創造する過程で、畢竟するに誰が文化理念の「東亜」を近代に於いても認識する資格を有するのかということである。
本稿の論述後、参考文献として台大の東亜研究組織が本稿に対して発した学術誌不掲載理由書を添付しておいた。そこでは、社会機構の群れ内部から漏れ出す組織自衛の原理を窺い知る事ができ、本稿への反駁としては終始的を射ることの出来なかったこの無内容の理由書によって、却って本稿の論旨の合理性が実証できたように思う。添付した理由書は、共同研究のあり方とセクト主義の問題を考える上で価値の高い史料だといえる。
Subjects
侵略/抵抗
延續
使命
世界
東亞
近代
Type
report
