https://scholars.lib.ntu.edu.tw/handle/123456789/5797
Title: | 省思「東亞的近代」的必要性:從子安宣邦的「來台」意義談起 | Authors: | 戶倉恆信 戸倉恒信 |
Keywords: | 歷史時間;世界史的哲學;作為方法的中國;方法的多元性 | Issue Date: | Sep-2008 | Journal Issue: | 第6期增刊 | Start page/Pages: | - | Source: | 文化研究 | Abstract: | 本文試圖掌握子安宣邦(1933- )於2008年4月8日,在交通大學召開「東亞世界與儒學」主題上所發表的〈省思東亞的近代〉講稿中始終被預設的四個範疇——歷史時間、世界史的哲學、作為方法的中國、方法的多元性,而積極尋找「東亞」概念的知識範圍。筆者相信,透過子安宣邦對於該「知識」的接近法,可以使我們理解到為何在群體研究上需要所謂的「知之為知之,不知為不知」的理由。其實子安對我們作出的提醒並不特殊,他不過是以一個知識活動的實然,作為普通的前提而已。換言之,我們在學術群體裡面對的最大問題,可以說是存在於群體研究中展現「不知為知」的顯在化過程。 |
Description: | 本稿は、2008年4月8日に新竹の交通大学で行われた、子安宣邦氏の講演「東亞世界與儒學」内で用いられていた四つの範疇(即ち歴史時間、世界史の哲学、方法としての中国、方法の多元性)から、「東アジア」といった概念の「知識」範囲が何であるのかを探ろうとするものです。つまり、実体化されない「東アジア」を通じ、私たちが共同的な研究を行ってゆく上で、そこではなぜ「知之為知之,不知為不知」という概念が改めて重要となるのか、それを子安氏の知的接近法を通過させてみることによって、明らかにしようというのです。しかし、子安氏が私たちの前に提示していたこととは、別段特殊なことなのではなく、私たちの知識活動において大前提となっている、ごくごく普通の事柄にすぎなかったのです。言い換えると、現代のアカデミズムが抱える最大の問題は、知らないことをいかにも知っているように論じるという、即ち知らないことまでをも狭隘な組織的活動の支配下におこうとする、つまり「東アジア」を自己を顕示して消費してしまおうとするプロセスなのです。 |
URI: | http://ntur.lib.ntu.edu.tw//handle/246246/86004 | ISSN: | 18160514 |
Appears in Collections: | 歷史學系 |
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